以前、この2つの記事で僕が抱えている日常生活の悩み?を紹介した。
時は遡り令和元年。
僕は箇条書きにした日常生活の悩みを引っ提げて病院へ相談に行った。
(上の2つの記事ではブログ用に一部省いているけど、結構な悩みの量があった)
いや、「相談に行った」というよりも妻に「行かされた」と言った方が正しいだろうか。
悩みと言えば悩みだけれど、別に生きていけねえ!ってほどの悩みじゃないしなぁ…。
病院で相談なんて大げさな…と思って相談に行ったのだが、先生は箇条書きにした僕の悩みリストを見てこう言った。
そして、先生からも発達障害の疑いをかけられた僕は「WAIS検査」を受けることになった。
※WAIS検査についてはこちらを参照ください。
WAIS検査は保険適用外。
検査費用はなんと2万円(だった気がする)。
あまりにも高すぎて、こんな検査でなんで2万円も…とアホらしさを感じたのを今でも覚えている。
検査(テスト)にはかなり時間がかかるため、2日に分けて行われた。
もう5年も前なので詳細には記憶していないが、テスト内容は
・一般常識(この言葉の意味は?や日本三景は?など)
・パズル(ばらばらの積み木のようなものでりんごを完成させる とか)
・数唱(検査官が言った数字を復唱する)
などなど多岐に渡った。
めちゃくちゃ疲れたのを覚えている。
そして結果が出た。
結果報告受診の際は、正直僕では良く分からないので妻も同席した。
テストの結果、僕は発達障害と診断を下された。
理解しようとする気がなかった僕は当時のことを覚えていないが、発達障害の場合WAISテストの結果に凸凹が出るらしい。
何かの科目は突出して出来る(凸)けど、何かの科目は著しくできない(凹)と。
先生が驚いていたのは、先に挙げた数唱の結果だった。
書いた通り、数唱とは検査官が発音したランダムな数字を復唱していく。
例えば、「2・5・6・2・1・5・7・9」など。
ただそれだけなら簡単なのだが、「2・け・5・み・2・1・5・く・9」など言葉が交じったり、逆から復唱することを求められる。
僕はこの科目が満点だった。
自分でも若干聴覚が過敏なところがあるような気もする。
例えば、前にも書いたが、薬を飲み始める前は「東京臨海高速鉄道りんかい線」という言葉が聞こえると耳と頭にこびりついて離れなくなったり、道を走る車のナンバープレートを読み上げ数字の羅列を積み重ねていったりと訳の分からないことをしていた。
「絶対音感」なんていう素敵なものが僕に備わっていたらどれだけ良かっただろうか。
そんな綺麗なものではない。
僕の場合、例えるならば耳から入ってきた音(数字)が、頭の中にある五線譜に刻まれ、五線譜をなぞる様に頭の中で響き続けるのだ。
これは本当に厄介で、僕がというよりも、外出した時に隣を歩く妻が一番迷惑していた。
WAISテストの話に戻るが、普通の人はあまり数唱が得意ではないらしい。
ただ、僕はこの厄介な耳のせいで数唱が異常な「凸」になった。
その他、「凹」やら「凸」があったらしいがもう覚えていない。
こうして、「発達障害だね。」と先生から診断を受けた。
因みに僕の診断書には
従たる精神障害 「自閉症スペクトラム障害」
身体合併症 「ADHD」
と書かれている。
麻雀で例えるならば、親の倍満くらいだろうか。
こうして、「僕の発達障害を抱える人間」としての人生が始まった。
しかし、待ってほしい。
診断書を僕の親しい人が見たら「えっ…」て思うかもしれない。
難儀な生活を送ってると思う人もいるかもしれない。
だが、僕はしっかりと生活している。
確かに、人事異動如きで悲しくなっちゃう人より寂しがり屋なところはあるが、それでもしっかりと生きている。
生きているし、これまでも生きてきた。
先生から言われたのは、僕の場合ADHDとASDが併発しているからこそ、普通らしさを保てているらしい。
ADHDの短所をASDが、ASDの短所をADHDが打ち消しているらしい。
「らしい」というのは、僕自身先生の説明をよく聞いておらず、隣に座っていた妻が聞いてたからなのだが…。
つらつらと書き連ねたが、僕がこの記事で一番言いたいことがある。
それは、子供が発達障害と診断を受けた親御さんへ向けるものだ。
自分の子供が周りと比べて普通ではないなんて…とショックを受けたかもしれない。
どうしてウチの子なんだろう、この先どうやってこの子は生きていくのだろうと心配になるかもしれない。
子供が周りの子供とは違う行動をして腹を立たせることもあるだろう。
だが、どうか「普通らしさ」を求めないであげてほしい。
これは後日書こうと思うのだが、僕は「普通は~」という言葉が大嫌いだ。
「普通」なんていう誰が決めたかも分からない枠組みに組み込まれるなんてまっぴらごめんだ。
現に、僕は家でも会社でもよく「らむねは普通じゃない」と言われるが、しっかりと生きている。
そして普通じゃないと言われることに別に悩んでいない。
発達障害の当事者にとって、自分の生きている、歩んでいる道そのものが「普通」なのだ。
どうか、周りの子供と比較しないでほしい。
その子が歩いている道を無理やり軌道修正しないでほしい。
その子なりの生き方を選ばせてあげてほしい。
綺麗事かもしれないが、人生はその人だけのものだ。
子供のうちは手がかかるかもしれないが、高校、大学生、社会人になれば自立して生きていける。
学校に行きたくないというかもしれない。
でもそれはそれで一つの歩む道だ。
それで後に自分が後悔するも、自分の道なのだ。
凹があれば凸もある。
「凹」の部分ばかりに囚われすぎて、その子の「凸」の部分をどうか見逃さないでほしい。
凹を何かで補うよりも、凸を伸ばせば伸ばした分だけその子の武器になると僕は思う。
生きにくい人生だって、また一つの「人生」なのだ。
と僕は思う。