先日は祖母の誕生日だった。
毎年プレゼントに日本茶を送っていたのだが、この前会ったときにステーキを食べると聞いて今年はお肉を送った。
80歳を超えると歯やら体調やらで何が食べられて何が食べられないか分からないため、毎年無難なお茶を送っていたが、たまには趣向を変えてみるのもいいのかもしれない。
僕の祖父は去年の正月明けに亡くなった。
脳出血で倒れ、そのまま意識が戻ることなく亡くなってしまった。
だが、実は脳出血で倒れたのは僕が会社に入った年のGWだ。
つまり、意識が戻らぬまま奇跡としか言いようのない生命力で約6年も生き続けた。
倒れたとき、僕はもちろんのこと親族全員が悲しみに暮れた。
意識が戻るかもしれないという、限りなく0%に近い極僅かな可能性に賭けたが、叶うことはなかった。
しかしながら、やはり一番悲しみの深いどん底に居たのは祖母だろう。
祖母の家は茨城の田舎だ。
祖母は車を運転できない、近くのショッピングモールまでは10km以上ある、携帯も持っていない、最寄りの駅まで車で20分、電車も1時間に一本しかない。
そんな環境に独り残された。
祖父が倒れて一番最初に会ったとき、祖母の姿はふっと息を吹きかけただけで消えてしまう蠟燭の火みたいにか心細く見えた。
実際、これからどうしたらよいのか…と落ち込む姿を見ていると心が苦しくなったのを覚えている。
とはいえ、起きてしまったことはしょうがない。
祖母は一人で生きていく「覚悟」を決めたのだろう。
まず祖父名義だったガスや電気、水道の名義変更をし、祖父が使っていたネット回線やスマホの解約などを順繰りにやっていた。
今まで契約関係の全ては祖父がやっていたらしく、どこに何を書いてどこに出したらよいのか分からなかったため我々孫たちもサポートした。
次に相続の準備や祖父が乗っていた車の売却、不要な物の処分をしていった。
つまるところ、もう間もなく旅立つであろう祖父に備えて支度を進めていったのだ。
ところが、我々の予想に反して祖父は意識が戻らぬ状態にありながらも、身体は良好らしく生き続けた。
高熱を出し、そろそろダメかもしれない…と母から連絡が来たが、翌日にはケロッと治っていたこともあった。
今年が山場か…今年が山場か…と毎年のように我々一同は身構えたが、結果的に先に書いた通り6年も生き続けたのだ。
この「6年」という時間が我々にとって非常に重要だった。
もし、倒れた直後に亡くなっていたら、それこそ祖母は立ち直れなかったかもしれない。
母や叔母、我々孫たちも祖父の死を受け入れることが出来なかったかもしれない。
誰もがきっと悲しみに明け暮れていたことだろう。
しかし、6年も経つと「もう十分生きたでしょう」と皆が考え始める。
言うなれば、いつ亡くなってもおかしくない状態である時間が長ければ長いほど、実際の「死」に直面した時の耐性、「死」への覚悟が顕在化する。
事実、祖母も6年も一人暮らしを続けたおかげで祖父が居なくても生活ができるようになった。
僕自身も、訃報を聞いた時に「じいちゃん、やっと楽になれたんだな」と少しほっとした気持ちになった。
祖父が寝たきりでいた6年間は、残された私たちに与えた「アディショナルタイム」だったのかもしれない。
6年経ち、もうそろそろみんな大丈夫だろうと思い、祖父は旅立っていったのだろう。
小学生の頃、よく祖父の家に泊まりで遊びに行った。
祖父は将棋が好きな人だった。
僕は将棋のルールを祖父から教えて貰った。
祖父は遊びに行くたびに僕と将棋をやりたがったが、当時の僕は将棋なんか辛気臭いものよりもポケモンやトランプの方が楽しかった。
「▲7六歩△3四歩▲2二角成り」のワンパターンしか行動できない僕はいつも同じ負け方をしてつまらなかった。
だから将棋なんて面白くもなんともなかった。
最近、時間が空いているときに将棋の勉強をしている。
矢倉囲いや美濃囲い、穴熊囲いみたいな基本的なものばかりだが、定石を覚えたりなんかしちゃっている。
今頃になって、「じいちゃんと将棋やりたいな」と思うことが増えた。
でも、もう叶うことはない。
人は失って初めてその大切さに気付くとはよく言う。
僕は20年の月日が経って、ようやく自分の過ちに気が付いたようだ。
いや、過ちというよりも「教訓」と言った方が正しいのだろう。
じいちゃんには亡くなる瀬戸際まで「時間」というものの大切さを教えて貰った。
そして、僕は今、果たしてその教訓を活かして生きているのだろうかと一人自問している。